まだ5月だというのに、例年よりかなり早く九州北部の梅雨入りが宣言されました。
この原稿を書いている今日は、朝から雨が降り続いています。
5月のこの時期になってくると、4月はてんやわんやであったクラスの様子も落着きが出始めてきているのではないかと思います。
先生方、お疲れさまです。
だんだんと子どもたちもクラスに慣れてくると、いろんなお喋りが聞こえてくるようになってきます。
自分の思ったことを言葉を使って、表現するようになってきているのではないでしょうか?
自分の想いや考えていることを自分の中にある拙い言葉を使って表現する姿は、とても可愛くて目を細めながら聞き入ってしまいます。
どんなことでもしっかり聞いて、子どもの気持ちを正面から受け止めてあげたい!と思ってしまいます。
ふとこんな事を思い出したので、シェアしたいと思います。
昔、先輩の先生から注意されたことがあります。
それは、
『せんせい、おちゃ!』と子どもに言われて、すぐにお茶をいれてあげていませんか?
でした。
この文章を見て、どこかに違和感を感じますか?
注目するポイントは、
①「せんせい、おちゃ!」と言った子どもの言葉
②子どもの言葉を聞いて、先生の取る行動
この2点です。

発達心理学のお話を少ししますね。
生まれたての赤ちゃんは、周りから聴こえてくる言葉は音として聞こえていても、それを使って話すことはできません。
なので、唯一の手段である”泣く”という行為を通して、「お腹が空いた」「オムツが気持ち悪い」「眠たい」という生理的な欲求を伝えます。赤ちゃんの身の回りにいる大人は、赤ちゃんが泣くことによって何を訴えているのかを泣き方を聞き分けながら、赤ちゃんの欲求に応えようとします。
ここでは ”泣く→自分の欲求は満たされる” という学習をします。
赤ちゃんは自分では動くことも喋ることもままなりませんが、泣くと”何でもしてもらえる=何でもできる!”という万能感を得ていきます。自分の身を守ってくれる大人との二者関係(依存関係)の中に一体化しているのです。赤ちゃんにとっては不安など微塵もない、とても安心していられる居心地のいい状態です。
赤ちゃんは、日に日に成長していきます。
首が座ると寝返りを打つようになり、這うようになり、つかまり立ちをするようになり、そして自分の足で一歩踏み出すようになり、自我も出始めます。
その頃には、沢山出始めた喃語が「ママ」「まんま」「パパ」などの言葉に変化してきます。
身の回りにいる大人がそれを見て、聴いて喜ぶ姿を見ながら新しいことをどんどんと覚えたり、周りにあるものに対して安心して興味や好奇心を持つようになり何でも自分の中に取り込みながら成長していきます。感情の分化も広がっていき、色々な表情をみせるようになります。そして言葉数は更に増えて、真剣に喋る舌足らずな赤ちゃん言葉が無性にかわいい時期になってきます。
いろんな言葉を獲得した赤ちゃんに対して、周りの大人は次に言葉を使って
「どうしたいの?」「何が欲しいの?」「何が嫌なの?」「どんな気持ちなの?」と
知りたがるようになり、言葉で教えるように求めてきます。
喋ることのできなかった頃は、全力で赤ちゃんの欲求を察していた大人たちは、自分たちと同じように言葉を喋るようになった赤ちゃんには、次第に言葉で返すことを求めるようになってきます。
なかなか言葉で伝わらないもどかしさにかんしゃくを起こしたり、ここで!?というようなポイントで頑固になったり、暴れたり・・・謎だと言われるイヤイヤ期、赤ちゃんにどう接したらしたらいいのか困ることもあると思います。
赤ちゃんにとってあんなに居心地のよかった一体感のある関係が、言葉が出始めることによってあっという間に崩れていってしまうんですね。ここで今まで二者関係だけだった世界が、言葉という第三者の登場によって三者関係へと世界が広がっていきます。一体であると思っていた大人と自分が、言葉を喋ることで分離し境界線ができ、一個体として独立していくことに不安を感じて、イヤだイヤだと抵抗しながらも学んで受け入れていきます。イヤイヤ期は、赤ちゃんが人になって世界を広げていくために必要な時期なのですね。
では、なぜ察してあげることが良くないのでしょうか?
日本の文化は、『察する文化』だといわれます。
相手の気持ちを察するべきだ。察する気配りができることは素晴らしい。などと聞いたことありますか?
世渡り術として大事だとか言われたりしますが、
言葉で明確にしないと、言葉で確認しないと本当に伝えたいことや大事なことは伝わらないことがある。
察し間違いが生じる時があるから、言葉が必要なんですね。
察すると似た言葉に”思いやり”という言葉があります。これと混同しがちなので、その違いは意識することが必要です。主張すべきことは、言葉で伝える必要があるのです。して欲しいこと、聞いて欲しいことは、伝えないと伝わりませんね。
大きくなっても察してもらってばかりの環境に居続けると思い通りにならないことへの耐性が弱くなり怒りっぽくなったり、我儘になったり、自我の確立を妨げてしまうのです。
身の回りにあっ・・・と思い当たる人がいたり、昔テレビで観た「おい、お茶!」と威張っている昭和の雷親父だったりとか・・・思い浮かんだりしましたか!?

さて、前置きが長くなってしまいましたが先にあげた
『せんせい、おちゃ!』と子どもに言われて、すぐにお茶を入れてあげていませんか?
について、どう保育の場面で関わったらいいのでしょう?
注目するポイントとして上げた
①「せんせい、おちゃ!」と言った子どもの言葉
②子どもの言葉を聞いて、先生の取る行動
この2点、あなたならばどう関わりますか?
察しすぎるのではなく、もどかしくても言葉を介した三者関係を作っていく関わり ですね!
仕事として、保育のプロとして、その弊害を分かった上で意図的に物分かりの悪い大人(先生)を演じてくださいね。これが子どもたちの自我の確立に関わってくるんです。
物分かりの悪い先生になる!
これはつまり、「先生は、お茶じゃないんだけどなぁ~お茶どうしたいの?」と投げかけて子どもからお茶が欲しい、お茶を入れて欲しいという言葉を引き出したら、「〇〇ちゃんに教えてもらってよかった。先生、ちゃんと分かることができて嬉しいなぁ!」と伝えてあげると子どもたちにも伝えられた満足感が広がると思います。
とここまで書いてきたんですが、もう一つ思ったことがあります。
私は、今年88歳になった母の介護をしています。高齢なので色々なことを忘れてきていて、子どものようになってきているんです。母が言ったのは「ちょっと!ティッシュ!」でした。
人生の大部分昭和の時代を生きてきた人で、まさに「おい!お茶!」の世界を地で生きてきた人です。年下の者は年長者のことを察するのは当たり前なんですね。
歳をとってくると外に出かけることやいろんな人と関わることが億劫になってきて、話をするのもほぼ私くらいしかいなくなりました。元々お喋りな人ではないので、積極的に人と話そうともしません。すると、色々な言葉をどんどん忘れていってしまっていることに気づきました。分かっていてもすぐに言葉は出てこないということも多いです。老化は少しずつ進みます。子どもではないので、衰えていくばかりです。これは、致し方のない自然なことです。
でも、私にできることはないかな?と思ったんですよ。脳の中で記憶にあるものを繋いでいく神経物質の分泌は年々減っていくかもしれません。しかしながら、使うことで少しは繋がりが戻っていったり、維持されていくんじゃないかと・・・試しに、物分かりの悪い娘を演じて言ってみました。
(私)「ちょっとって、私のこと?」
(母)「そう!」
(私)「ティッシュって何?」
(母)「いまさら・・・何を言っとるん・・・ティッシュとって!」
(私)「あ~そういうことね!分かったわ!はい、どうぞ!」
(母)「ここ拭きたかったんよ」
(私)「きれいになったね!ありがとう」
黙ってティッシュを渡した時とこのやり取りの時の会話は、量も質も違いますよね。言葉は分かっていても、使わないと使えなくなっていくんです。色々と私に喋らされて母は「(私が)難しいことばかり言う」と面倒臭く感じているようですが、地道な老化対策の一つだと思っています。
結論・・・子どもも 大人も 老人も みんな 同じです!
言葉を持っている人間だからこそ、何かを伝える時に言葉を使う事は幾つになっても大事だと思うんです。
今回も少し長いお話になりましたが、みなさんはどう感じられましたか?
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