春爛漫🌸と”いのち”という時間の使い方

春爛漫とといえば、春の花があちこちで咲き乱れて、
柔らかな春の光に輝き満ち溢れた様子を思い浮かべます。
日本の春は、桜の樹々があちこちに植えられているので、山も街中もピンク色に彩られます。
くすんだ色をしていた山が、桜の開花によって華やぎ、
街中もあちこちの桜の木を見上げる人や
公園でレジャーシートを広げたり、
外で過ごす方も多く見かけられるようになってきました。
福岡では、桜もほぼ満開から散り始めています。
我家は隣が公園なので、この時期桜の花びらが玄関やベランダにひらひらと舞い込んできます。
風に吹かれて舞う桜吹雪や京都で見た花筏は、
この時期でないと見ることのできない美しい光景だと思います。
ひらひらと舞う花びらを見ながら、過ぎ行く季節を感じています。
今年は、ギリギリ入学式に桜が残っていて、良かったと思いました。
そろそろ花壇では、チューリップ🌷の花が満開になる頃かとも思います。
冬の間葉を落とし丸坊主だった木々も新芽が出て、柔らかい葉を少しずつ広げています。
草木好きの私には、ワクワクする季節です。
写真を撮るのも楽しいし、可愛い花々に暖かな空気も相まって心が緩みます。
昔々の人々にとっても、桜の木の下にゴザを敷いて春の到来を喜びその時間を楽しむと同時に、
これから進める農作業の準備の時間でした。

サクラ:
今年は、寒さが残って長く花を楽しめましたね🌸
風は強いですが、やっと
春らしい風が吹き始めました。

前回のブログで、渡辺和子先生の著書『置かれた場所で咲きなさい』
をご紹介させていただきました。
久し振りに本を読み返すと、当時の記憶が蘇ってきて、
「時間の使い方は、そのまま、いのちの使い方なのですよ。」という文章で、
ハッとして、立ち止まったことを思い出しました。
と同時に想い出したのが、
ドイツの児童文学者ミヒャエル・エンデ作の『モモ』でした。
(『モモ』岩波少年文庫 ミヒャエル・エンデ作/大島かおり訳)

小学校高学年の子どもから読むことが出来る児童書です。
訳者の大島かおりさんのあとがきを引用すると・・・
探偵小説のようなスリルと、
空想科学小説的なファンタジーと、
時代への鋭い風刺に溢れた作品です。

主人公の『モモ』は、年齢も素性も分からない浮浪児で、
現代人が失ってしまったものをまだ豊かに持っている自然のままの人間の
いわばシンボルのような子どもとして描かれています。
それに対するように現れてくる、
葉巻の煙に包まれた「灰色の男たち」は、
言葉巧みに人々に時間を倹約させて時間貯蓄銀行へ預金させようとし、
それによって、人々から時間は奪われていきます。
「時間がない」「ひまがない」を私たちは、毎日聞き、自分でも口にします。
忙しい大人だけではなく、子どもたちまでもがそうです。
機械的に計ることのできる時間が問題なのではなく、
人間の心のうちの時間、人間が人間らしく生きることを可能にする時間、
そういう時間が私たちからだんだんと失われてきているということが、
この物語の中心テーマになっています。
美しく幻想的な童話の形式の中に、大人にも子どもにも関わる現代社会の大きな問題が、
取り上げられているのです。

『モモ』のスリル溢れるファンタジーな物語の世界を是非、体験してみてください。
とても描写が素敵で、大人の私が読んでもワクワクするような物語でした。
ですが、内容的には大きな衝撃を受けました。
なぜなら、当時の私の口癖は、「時間がない」「ひまがない」だったからです。
1日が48時間欲しい!というくらい時間の無さを感じていて、
いつも仕事を優先して、仕事のことばかりを考えていました。
「時間の使い方は、そのまま、いのちの使い方なのですよ。」
という言葉とこの『モモ』という物語は、
時間をある意味粗雑に扱い、おろそかにしてきていた私にとって、
自分のトリセツや日々の暮らしの在り方を考えさせられるキッカケになりました。

経済的、物質的な豊かさを求めている人々は、
なぜか見事に灰色の男たちの言う世界に染まっていきます。
そしてあくせく働き、それ以外は無駄なことであったり必要ないことだとして
切り捨てていきます。
いつしか心も動かなくなって、硬くなっていくのです。
言葉では、正論のようなことを言っているのですが、
その中で心は、ほぼ無視されていて、
「~べきである」ことや「~しなければ」というようなことで埋め尽くされます。
そのことに気づくことなく、真面目にタスクだけをこなし続けている。
物語を読み進めていくと、
ふと・・・まるで私のことじゃない!?となったのでした。
真面目に暮らしてはいたのですが、
ヘトヘトに疲れて帰ってきて、ご飯食べてお風呂に入って倒れるように眠る日々は、
潤いがある豊かな生活とは全く程遠い生活で、
何か言いようのない不安や重いものが胸の中にあって、
心身ともに疲れ果てていたとも言えます。
こうして、
当時の私の心の中にポンと投げ込まれた一石は、静かに波紋を広げていきました。

「時間がない」「ひまがない」私の毎日は、忙しい日々でした。
そんな私のもう一つの口癖が、「忙しい」でした。
”忙しい”という字は、
「忄」+「亡」

心の字を立てて偏にした
「忄」(リッシンベン=立心偏)と
しぬを意味する「亡」からできています。

そのまま読むと、心を亡くしている、心が死んでいる。
ということだと思います。
「忙しい」と口にすることで、もう一杯いっぱいなんですと
周りの人からもたらされる雑多なことから自分を守っていたのかもしれません。
そう言って目の前の仕事ばかりに気を取られ、
本当に大切なことを流してしまっていたことに気づいたのです。
時間は、人にとって有限であることはもちろん知っていましたが、
人間らしく丁寧に生きるという時間にはなっていなかったのです。
それから、「忙しい」という言葉をなるべく使わないように、
自分の中に意識するようになりました。
常に使っていた言葉ですから、不意に出てくることもあります。
だから言ってしまった時は、その言葉の後にネガティブになる言葉を続けないように心掛けました。
自分の生活を見つめ直し、手をかけて生活するようにもなりました。
寝るだけになっていた家に過ごしやすい空間作りをしたり、
パッパと時間をかけずに時短で済ませていた料理や洗濯、掃除も
一遍にしてしまおうとせず、ゆっくり丁寧にするようになりました。
そして、手帳やモーニングノートを使って自分の内側の自分と対話する時間や
心がエモーショナルに動いてワクワクする時間を大事にするようになりました。
そうしているうちに、少しずつではありますが、
自分を自覚し、落ち着いて生活し、
今の生活を幸せだと感じられるようになってきました。

あなたは、今というこの時間、
どのように使いたい(過ごしたい)ですか?

長々私の話に最後までお付き合いくださり、
ありがとうございました。
夏が訪れる前の晩春、みなさんが穏やかに過ごされますように
心よりお祈りいたします🍀

サクラは桜でもシバザクラ:
子どもの頃、庭に祖母が植えていました。
こんなに密集して咲いてはいなかったので、
それほど気にも留めていない花でした。
今こうしてカメラのファインダーを通してみると
可愛くて美しいなぁと思います。